以前、こちらのページで紹介致しました
長崎の幻の焼き物のひとつ 「 鵬ヶ崎焼 」
久しぶりに出会いましたのでご紹介します。
長崎鵬ヶ崎焼 染付詩文見込陰陽文鉢 ( 江戸後期 )
口径15.5cm x 高さ6cm 個人蔵 非売品
* 早速のご成約、ありがとうございました。
記事の続きは右下の 続きを読む をクリックしてください。
story by アートギャラリー甲比丹(カピタン) 無料鑑定 出張鑑定 骨董 古美術 株式会社キーアクト
長崎の幻の焼き物のひとつ 「 鵬ヶ崎焼 」
久しぶりに出会いましたのでご紹介します。
長崎鵬ヶ崎焼 染付詩文見込陰陽文鉢 ( 江戸後期 )
口径15.5cm x 高さ6cm 個人蔵 非売品
* 早速のご成約、ありがとうございました。
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story by アートギャラリー甲比丹(カピタン) 無料鑑定 出張鑑定 骨董 古美術 株式会社キーアクト
時は江戸後期、文政六年 ( 1823年 )、
長崎の町年寄、高木氏の庇護のもと、
儒学に明るく教養もあった蒲池子明ら
によって稲佐に開窯した文人雅陶、
煎茶文化が根付いていた長崎ならでは
文人流で風雅に富んだ作風の煎茶道具や
文房具などの小品が焼いたと言われています。
しかし、同じ文人陶でもお上 ( 長崎奉行 ) の
後ろ盾や資金援助があった亀山焼とは違い、
あくまでも数寄者の趣味窯の色合いが強く
商業目的が主体ではなかった鵬ヶ崎焼は
僅か30年前後でその歴史を閉じました。
そのため、作品残存数は極めて少なく、
作風も前回紹介したようなカチッと焼き
締められた褐色土に白色や瑠璃色の
イッチン掛けをした作品や、蘇州土を
使って染付で山水を描いたもの、今回の
作品のように白化粧釉の上から染付を
施したものなどバリエーションもあります。
その作風の面白さゆえ、特に褐色土に
盛り上げイッチン掛けを施した作品には
後世の倣作も散見されます。 また、
大正時代に馬淵龍石が開窯した通称
「 山里焼 」 にも似たような作風を認めます。
昔出版された図録には 「 鵬ヶ崎焼 」 として掲載
されていても現在では、アレッ? と首を傾げたく
なるような作品が載っていることはよくある話。
本歌の残存数が極めて少ないうえに、作風に富み、
後世倣作も多いとなると、コレクターのみならず、
業者泣かせの 「 幻 」 の焼き物ですが、
それゆえ、本歌を手にする喜びも大きいと
言うことになるのでしょうか。
余談ですが、鵬ヶ崎焼を興した蒲池子明さんの
お墓と僕の祖母・祖父のお墓は同じ寺町の
深崇寺なので僕にとって鵬ヶ崎焼はなんとなく
歴史の因果を感じる地元の焼き物なのです。
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長崎の町年寄、高木氏の庇護のもと、
儒学に明るく教養もあった蒲池子明ら
によって稲佐に開窯した文人雅陶、
煎茶文化が根付いていた長崎ならでは
文人流で風雅に富んだ作風の煎茶道具や
文房具などの小品が焼いたと言われています。
しかし、同じ文人陶でもお上 ( 長崎奉行 ) の
後ろ盾や資金援助があった亀山焼とは違い、
あくまでも数寄者の趣味窯の色合いが強く
商業目的が主体ではなかった鵬ヶ崎焼は
僅か30年前後でその歴史を閉じました。
そのため、作品残存数は極めて少なく、
作風も前回紹介したようなカチッと焼き
締められた褐色土に白色や瑠璃色の
イッチン掛けをした作品や、蘇州土を
使って染付で山水を描いたもの、今回の
作品のように白化粧釉の上から染付を
施したものなどバリエーションもあります。
その作風の面白さゆえ、特に褐色土に
盛り上げイッチン掛けを施した作品には
後世の倣作も散見されます。 また、
大正時代に馬淵龍石が開窯した通称
「 山里焼 」 にも似たような作風を認めます。
昔出版された図録には 「 鵬ヶ崎焼 」 として掲載
されていても現在では、アレッ? と首を傾げたく
なるような作品が載っていることはよくある話。
本歌の残存数が極めて少ないうえに、作風に富み、
後世倣作も多いとなると、コレクターのみならず、
業者泣かせの 「 幻 」 の焼き物ですが、
それゆえ、本歌を手にする喜びも大きいと
言うことになるのでしょうか。
余談ですが、鵬ヶ崎焼を興した蒲池子明さんの
お墓と僕の祖母・祖父のお墓は同じ寺町の
深崇寺なので僕にとって鵬ヶ崎焼はなんとなく
歴史の因果を感じる地元の焼き物なのです。
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Season’s Greetings 2011 by keiko (12/25)